今週のトピック

「互いに赦し合いなさい」2018年 4月 15日

エペソ人への手紙 3章 32節(抜粋)

「神がキリストにおいて
あなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい。」

(引用元:聖書 新改訳 2003新日本聖書刊行会)

最近、ニュースを見るたびに政治および行政の新たな疑惑や過去の問題発覚が取り上げられており、さすがにうんざりした思いを抱くようになりました。一度始まった内部告発(あくまで私の個人的推測ですが、おそらくそうでしょう)の流れが止まらなくなり、これまで放置されていた問題が露わにされ、社会としても反省をする機会になるかもしれないとプラスに考えることもできるのですが、どうもそういった方向には進まず、辞める辞めないの話ばかりで、どうすれば現状を変えられるのかという方向性が見えてこないことが、この悶々とした思いを持ってしまう理由のように思います。

過ちを素直に認め正そうとする時、現状の安定した状態を壊してしまうリスクが確かに伴うと思います。当事者にとっては自分の人生がこれで終わってしまうかのように思え、そこで決断することは本当に勇気がいることです。ですからその人を取り囲む周囲も批判ばかりでなく、最低限、その方々の立場や人格を尊重する姿勢が必要に思えます。

ただ実際にはそれは綺麗事と言えるでしょう。私たちには感情があり、なかなか人を赦すことができませんし、何より「責めない事」=「相手の人生の助け(守り)」にもなりません。悔い改めに導くことこそ、その人の長い人生における益となるからです。同時に「悪」や「罪」が”許され”続けることは私たちにとって不利益しか生みません。

そう考えていくと、社会問題も、私にとっての身近な人間関係における悩みや葛藤、軋轢(あつれき)も、その複雑さや困難な道という点で同じなのだと思えてきました。そして、その解決が主の十字架の絶対的な赦しと、信仰による悔い改め、何より主の愛によって人を愛する事に“のみ”あるのだと改めて考えさせられています。社会はすぐに変えられなくても、身近な自分たちの周りで起きてくる問題においては、少しでも信仰によって互いに赦し合い、本当の意味で愛し合っていくものでありたいと願います。

※4月16日に加筆したものを掲載

(文=加藤信行 伝道師)


[ 今週のトピックス一覧に戻る ]